☆∂TONでも三国志(カネトシ星人通称東(トン)ちゃん)


                
  • 49.魏と蜀が五丈原で対決していた頃、蜀軍の兵士がある野菜を栽培し、これを「諸葛菜」と呼んだが、白菜のような野菜だろうか。

  • 48.曹操と呂布が戦って、蝗が飛んできたとき、蝗を食べたのだろうか。

  • 47.後漢の破壊者・董卓は何かを創りたかったのだろうか?それともただブチ壊したかっただけなのか…。

  • 46.官渡の戦いで曹操の兵力は1万程度とされているが、袁紹軍7〜8万を穴埋めした事から、実際は何倍も多かったか、穴埋めの記事が間違いだったかのどちらかのはず。曹操の事だから実兵力をごまかして戦った可能性も。

  • 45.「申生は留まって死に、重耳(晋の文公)は逃れて助かりました。」と諸葛亮が劉gに説いたが、重耳が逃れて復帰するまで十九年かかった事実も説明したのだろうか。

  • 44.現在の開封市の下には清時代の市街が埋まっています。その下には宋時代の、さらに古い時代の…。三国時代の市街は今から何層目…?

  • 43.関羽の青竜刀と、張飛の蛇矛は、実は宋の時代の武器。脚色としても、似合いすぎ。

  • 42.「関羽の千里行」他の武将なら嘘だと思ってしまうが、関羽ならできたかもしれない、そんな存在感があります。ちなみに千里は約400km。

  • 41.三国志中に「邯鄲」という町の名がわずかしか出てこない。同じ戦国時代からの都市「彭城」はよく出るのに<。

  • 40.曹操の軍師・郭嘉は漢3大功臣の一人張良と出身地が同じ。すぐれた軍師が出る土地柄なのか…。

  • 39.献帝奉戴。それまで友好関係にあった曹操と袁紹が対立するキッカケになったが、この頃の曹操はまだ弱小勢力。直接の動機は?

  • 38.毎日毎日延々と一日30キロ(それ以上の場合もある)歩き、慣れない気候・風土の土地を移動し時に闘う兵士。戦闘力以前に生命力が要求される生活。

  • 37.秦の頃、華南と長江流域をつなぐ運河があり、活発に往来があったが、呉も運河を修復して使ったかも。

  • 36.袁紹はグズで優柔不断のレッテル。いち早く多くの人材と軍隊と整えて中原の北側に君臨した人物にふさわしい?

  • 35.黄河流域では、今も昔も黄砂が飛んだはず。昔の人は黄砂アレルギーは無かった?

  • 34.曹操や劉備に比べてあまり目立たない孫権。スタートが遅かったためか、それともわざと?

  • 33.霊帝が営んでいた売官業。ほぼ同時代のローマ皇帝も同じ事をしている。洋の東西を越えて気が合うかも。

  • 32.関羽は「左氏春秋」を暗記していたそうな。実際に読んでみました。古人の記憶力のスゴさがわかります。

  • 31.平地では騎兵の良し悪しが勝敗を決めた。しかし優秀な騎兵には良馬が必要…。各陣営間で良馬の買い付け競争があったりして、品種改良も進めたりしたかも。

  • 30.中国の北と南では食文化が異なるが、北方系の劉備は長江流域に移ってから米を食したのだろうか?

  • 29.官渡の戦いで使用された「霹靂車」は、千年ほど後の「回回砲」(元軍が使用した。)と構造は似ているのだろうか?

  • 28.古代中国の人は海に暗いイメージを持っていた。だが曹操は海をテーマにした詩を詠んでいる。ルール無用の常識破り? 偉大な先覚者? う〜ん……。

  • 27.若い頃はヤンキーだったと言われる劉備。でも公孫讃と学友。平和な時代なら官吏になっていたかも。

  • 26.中原(黄河中流域周辺)が乱れると、人々は周辺地域に避難する。乱世になるたびに中央と周辺が攪拌され、中国の発展力になった。これは三国志にも現れている。

  • 25、魏vs蜀 蜀vs呉 魏vs呉……。結局、漁夫の利は司馬氏が取った。長続きしなかったけど。

  • 24.もし生の曹操に遇ったら… …。こんな想像をしながら本を本で見たら、更に「三国志」の魅力が上がります。

  • 23.「桃園結義」三国志演義の最初の見せ場だが、実はこの時代に義兄弟の契りを結ぶ風習はなかったとの説も有り。

  • 22.逃げの劉備と日和見の孫権。くっついたり離れたり。結局曹操が得をした。

  • 21.英雄たちの影にかくれた人たち…。物言わぬようでありながら、実はこの人たちが大きな歴史の流れを左右した。それは今でもおなじ。(はず)

  • 20.酒豪ナンバーワンの張飛。「酩酊は禍の門を開く鍵」を証明してくれた人です。後の世の酒豪たちへの戒めを残したのはいいが、最後がいけなかったな……。

  • 19.赤壁の戦いでは、諸葛亮は実はほとんど活躍していない。劉・孫同盟を結んだりはしたけれども。

  • 18.戦前の日本は寄生虫持ちの人が多かったが、三国志の英雄たちはムシに悩まされたりしたのだろうか?1/24

  • 16.曹操はついに帝位に即かなかった。そのココロは?12/13

  • 15.劉備は一生の内に、漢帝国13州の内10州を踏破 12/6

  • 14.五丈原以後を描いた本はなぜか少ない。(諸葛格、王濬など興味深い人物もいるのに…)11/24

  • 13.曹丕(曹操の嫡男・魏の文帝)は冷たいイメージがあるが、これは漢王朝を簒奪した事実に基づいて創られたかも。

  • 12.「天下三分の計」は、本当に劉備のための策なのだろうか?

  • 11.曹操が実施した屯田制は、食糧不足と人口不足の両方を解決できる画期的なアイデア。10/25

  • 10.春秋時代に、黄河を戦争に使用しない(決壊させない)という多国間協定があったが、三国時代にもあったかも知れない。10/18

  • 09.曹操は天才だが努力家でもある。何より失敗をバネに伸びる事を知っていた 10/11

  • 07.関羽と張飛どちらが強いか 10/4

  • 06.曹操と織田信長は多くの点で似ている。(どちらも人材発掘の達人で、当時の常識から見て奇抜な発想の持ち主。)9/19

  • 05.黄巾の乱以来、中国の各地で戦争が起こるようになります。群雄たちは周辺の異民族を戦争に使ったり、逆に討伐したりします。(曹操は匈奴や烏丸の騎兵を使っていますし、孫権は山越族の討伐を繰り返しています。) その中で、戦争に駆り出された異民族の人々は次の事に気付いたのではないかと思います。
    1. まず、1.中国兵が自分達に比べて弱い。
    2. 2.中国の国力自体が弱まっている。(後漢の初期に 2000万人いた人口が、三国時代には760万人余りにまで減っています。国力も人口に比例して落ちていた訳です。)
    3. 3.中国の文化に触れることにより、武力以外の経験を身に付けた。(これが大きいのではないかと思います。) 9/15

  • 04.董卓を倒した後、呂布が五原(呂布の出身地) に帰っていたら、中原を脅かす存在になっていた?9/9

  • 03.華陀が曹操に処刑された理由は、もしかしたら利休が切腹したのと似ているのでは? 9/6

  • 02.本当に「黄巾の乱」で漢帝国が滅んだのか?

  • 01.三国志。なぜか「史」ではなく、「志」